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痔瘻物語(闘病記 )−肛門周囲膿瘍編−


<<<はじめに>>> 私は、今まで痔とは無関係の生活をしてきました。痔を持っている人を汚がったり していました。そんな私に天罰が下りました。

2月8日お尻が痛い・・・
その日は、週末に予定しているニース出張に向けて寄書の調査/整理で忙しかった。 PM6時頃であったろうか、どうも尻に違和感がある。肛門の左側だ。 翌日PM3時頃か、また違和感に気が付く。 痛いでもかゆいでもない。ただ違和感だ。気になる。その時、初めて痔を意識する。そうだ、家に痔の軟膏があった筈だ。家内が出産後、痔に成りかけた時 購入した物だ。とりあえずそれを肛門に付ける。じきに直るだろう。 どうも気になるので多めに酒をあおって寝た。この時点では、まだ尻の事よりニースでの寄書発表の事が 気になっていた。

2月10日痛みが増して・・
朝から、違和感が気になる。軟膏は効いて無いようだ。午後になって、しこりの様な物が出来ている感じがする。しかも段々気になりだした。今日は、軟膏を会社に持ち込んでいた為、一日中軟膏を付け続けた。その晩は、尻に決定的な異常を感じる。違和感でもない、しこりでもない。痛いのだ。痛くて眠れない。 事情の重大さに気づく。明日は、病院に行かなければ。深夜になってやっと寝付く

 

2月12日病院で応急処置
朝から、肛門が痛い。腫れている様でもある。 朝ご飯を終えると早速、イエローページを検索。候補は2箇所。U病院とT病院。 T病院は、痔では有名だと昔から聞いている。 結局、車でT病院に行く事にした。 最初の受け付けで初診を受ける為の質問表を記入する。症状には、「肛門が痛い」とだけ書いておいた。 約30分後、呼ばれて治療室に入った。先生は、医院長先生だ。少しは安心する。「それでは、 パンツを下ろして左向きに寝てください。」と看護婦に言われて初めて羞恥心を感じた。 先生は、状況を説明すると解りきった様な態度で、「これは、肛門周囲膿瘍です。」と言いきった。 「簡単な手術をします。まずは、麻酔の注射です。」そう言って、ろくに説明もしないでケツに注射を始めた。 これが、とても痛い。局部麻酔だ。その後、麻酔が効ききって無いと思われる中、切開術に入った。 しかし、本人は何をされているか全く解らなかった。とにかく痛い。ケツの穴に指を入れている様でもある。 力を入れで膿を押し出している様でもあった。「痛い!痛い!」「我慢して!」の連続だった。 「終わりましたよ。」と言われて始めてホッとする。この医者は、インフォームドコンセプトって 知っているのだろうか? 激痛の後だけに腹が立つ。 「痛みは引きます。」「2ヶ月後位にまた来てください。」との説明に困惑した。2語目の方にだ。 聞き出すと[痔瘻]に発展する事が予想されるとの事。再びショックだ。 診察が終わっても肛門が痛い。とてつもなく痛い。一歩足を運ぶのに勇気がいる。死ぬ思いで薬を貰い 車まで歩いた。肛門が痛くて運転が出来ず、20分位駐車場でうなっていた。意を決して発車した。 約30K位のスピードで家までたどり着いた。家に入ると、バッタッと倒れてじっとしている。 痛くて動けない。子供が回りでふざけている。もし、肛門にでも触られたら一大事だ。 真剣に怒った。 ニースまで一緒に行く上司に電話を入れ状況を説明する。相手は笑っている。そんな奴だ。 「尻」と「寄書発表」との板ばさみとなり出張すべきか否か判断に悩む。 夕方になると先生の言った通り、痛みが引き出す。その時点でニース行きを決定した。 その晩は予定通り、晩酌もやった。 その日から、尻にティッシュペーパーを敷いておく様にした。出血する可能性があるからだ。 酔って「36歳にて初潮きたる。」などと言ったり痛みが引いた事により上機嫌になる。 また、その日は、インターネット/オフラインであらゆる限りの情報を集めた。キーワードは、 「肛門周囲膿瘍」と「痔瘻」である。以下が判った事; −痔瘻/肛門周囲膿瘍について−肛門周囲膿瘍は、九分九厘、痔瘻に発展する。 −痔の手術は、最初が肝心。 −特に痔瘻の手術は専門の医者に行くべき。・・・・

2月13日パリへ
特に痛いでも無く調子は良い。これなら一週間の出張(1日間パリ:5日間ニース)は持つだろうと確信し 成田へ。 成田で上司や他社の同業者に会う。何となく、尻に問題があると冗談ぽく振舞う。 「12時間の椅子が辛い。」などと冗談を言いつつ飛行機に乗り込む。朝から全く痛まないので 気を良くしている。抗生剤を飲んでいるにも拘わらず機内で酒をあおる。痛みが消えた事、寄書発表を 少しでも忘れたかった事などから酒がすすんだ。パリ到着は、同じ日のPM4時頃だった。シャルルドゴール空港からパスで凱旋門まで出た。 上司曰く、そこからホテルまでは歩いていけるとの事。仕方ないので、スーツケースをゴロゴロ させながら、2人でシャンゼリゼ通りを歩く。その時、肛門に違和感を感じた。 先生の言う通り、痛みは消えるはずだと確信していた為、そんなはずが無いと思い現状否認する事とした。 でも気になる。

 

 

 

 

2月15日激痛!フランスで女医さんに再び排膿手術
今日は、会合開始初日だ。会合は、月曜日〜金曜日まで続く。寄書発表は、火曜日以降になる予定だ。 朝から肛門の違和感が何となく鈍痛に変わってきた様な気がした。自分では、否定したい。 会合が始まるが、耳に入らない。肛門の痛みが確実な物になってきたからだ。これは、まずい。 最悪だ。明日は寄書発表だ。色々な判断ミスを後悔する。 @出張した事。 A機内で図に乗って酒を飲んだ事。(これが、痛みを誘発した可能性が有ると、その時は思った。) 昼食となった時点で、事態は最悪となった。痛くて歩けないのだ。更に左足のリンパ腺が腫れ出したのだ。 一歩一歩痛みをこらえて食堂まで歩く。食事など食った気がしない。あぶら汗で額がべた付いている。 限界を感じて、上司に相談。「しょうがね〜な!」とブツブツ言っているが、額のあぶら汗が目に留まった のだろう。状況が伝わったと見える。急に心配顔になった。すぐ医者に行く事を上司に告げる。 寄書の事が心配だが、そんな事は言ってられない。 この時点で不安な点がいくつかあった。 @誰に医者を紹介してもらったら良いか? A医者は、英語が話せるか? B「肛門周囲膿瘍」,「痔瘻」って英語でなんて言うんだろう。(持っていた小型辞書には、載ってない。) C手持ちのフランが無い。(医者は、アメリカの様にカード払いできるのだろうか?) まず、会合会場であるホテルのコンシェルジェにて、タクシーを廻してもらう。コンシェルジェに事情を 説明した。色々と医者について調べてもらったが、結局タクシーの運転手が医者については一番知っている との事でタクシーの運転手に聞く事となった。しかし、車を出してもらって初めて失敗に気がついた。 運転手は英語を話さないのだ。 しかたがないので医者は、ホテルに帰ってから考える事とする。しかしホテルに帰る前にする事が1つある。 金の両替だ。運転手に対して、BNP(フランスの国営銀行)を連発しUSドルを見せて 両替の意思を伝える。これは、うまくいった。やっとBNPについた。 また別の問題だ。銀行が閉まっている。まだ、PM2時だというのに? 運転手は、親切にも廻りの人に理由を尋ねてくれた。「カルナバール」と言いながら腕時計の12時を指す。 泣きっ面に蜂とはこの事。今日は、ニースのカーニバルの初日で銀行は半ドンである事が判った。 失望の局地である。とりあえずホテルに向かう。多めのチップを払うと晩飯さえ食えない位のフランしか 残ってない。左足のリンパは更に腫れてうまく歩けない。また、ホテルのおばちゃんは全く英語が話せない。 (危うし) おばちゃんは、困り果てた私を見て、少しだけ英語を話せる息子を呼んでくれた。 その息子に「Haemorrhoids」:痔,「Pain」,「Doctor」という言葉連発した。 そこで、息子は事情が判った様で、おばあちゃんに相談する。 ここからは、話は好転する。 そこで、おばあちゃんは信じられない提案をしてきた。ホテルに医者を呼んであげるというのである。 医者が来てくれるなんて、日本の田舎だけだと思っていたのに...すぐお願いする。 また、医者代はホテルにつけてあげるとも言ってくれている。ラッキー。 次にクリアしなければならないのが、医者との会話の準備である。 当然頼りは、インターネット。10PPS(ダイヤルパルス)でパリをアクセスする。 「肛門周囲膿瘍」という言葉さえ判ればどうにかなる。Yahoo, Info seekなどで探しまくる。 なかなか判らない。翻訳するサイトなどもあるのだろが医学専門用語なので判るとは思えない。 やっとヒントを見つけた。あるサイトのソースを見たところ「肛門周囲膿瘍」に対してのページを abscess.htmlでリンクしていたのだった。しめた。次は、abscessでサーチすれば良い筈だ。 ビンゴだ。数個引っ掛かった。その中で「肛門周囲膿瘍(英名:anal abscess)」と書いてあるでは ないか。これで余裕が生まれた。 後は、発病からの症状の変化、今までの診察状況を紙に時系列に判りやすくまとめた。 これは、外国で受診する際の最良の方法と思う。(経験論) 約1時間待ったか。先生がやってきた。どきっ?! これは、また別の問題だ。 なんと、先生は、30前後のマドマーゼルなのだ。これには、参った。(羞恥心) まとめた紙を見て納得してくれた。また、非常に痛い事について深く理解(同情)してくれた。 言われる通り、振りチンとなる。激痛が続いているのでそんな事などかまっていられない。 彼女は、「我慢して!」と言って腫れた部分を強く絞り出したのだ。飛び上がる痛さだった。 瞬時にベッドに敷いた(ホテルの)タオルは、真っ赤に染まった。大量の膿を絞り出したのだ。 その作業を繰り返しているとだんだん痛みが引いて行くのが判って来た。 そうだったのか。日本で切開手術をやって以来、全く出血が無かったのは、切開部分が塞がっていて 膿がまた溜まっていたのであったのだ。それを絞って再度、開放し膿を出したのだ。 「肛門周囲膿瘍は、内部に原因がある。」と理解した事が生かされていない。自分でも出来た 手当てであった。 魔法の様に痛みが消えた。さすがドクトール・マドマーゼル。天使に見えてくる。 更に明日専門の医者に行く様にと、電話で予約をしてくれた。本当によかった。 その晩、事情を上司に説明、明日の会合出席を知らせて、ぐっすり眠る。

 

 

 

 

2月16日、病院キャンセル
今日は、朝から全く痛まない。違和感も無い。もう全快した気分になる。会合では、本日中に寄書発表を 行う予定となった為、会場より専門医の診察をキャンセルする。この判断には、迷わなかった。 また痛み出したら自分でも治療できるという自信があったからだ。 その日は、特に痛みも感じず無事に過ごす。出血がある。何故か出血があると安心する様になる。

 

2月20日機内で自己治療して帰国
カンヌの街を歩いている時だった。また痛み出したのである。 さて、治療をしなければと思い立つ。結局、チャンスが無く空港まで引きずる事となった。空港に着く頃は 本当に痛くなっていた。さて、トイレに入る。ティッシュをチェックすると全く血が出ていない。 思い起こせは、ここ24時間は出血が無かった。ここは、我慢して腫れた部分を指で挟んで絞ってみる。 痛い。ここは、我慢のしどころ。少量の血が出ただけであった。トイレを出たがまだ痛い。痛いまま 飛行機に乗り込みニースからパリに向かう。その機中での事であった。スーっていう感じで腫れ物から 液体が流出した感じがした。開放したのだ。パリに着く寸前だったのでそのまま降りる。 早速、トイレに入ってチェックしてみると大量の血が出ていた。ホッとしたが悲しくもあった。成田に着いたのは、PM4時頃。家族が迎えに来てくれている。飛行中には、出血が有った為、特に 痛みは無い。 少なめのお土産に子供たちが少々不満ぎみだ。パパは、それどころじゃなかったんだぞと言いたかった。 波乱含みの長旅が終わった事で安心し、ぐっすり眠れた。

 

 

 

 

2月22日病院をHPで探す
さて、情報によると、T県A市にある「T病院」が良いとの事。会社の痔主様は殆どが そこで手術しているとの事。更にインターネットでも情報を発信しているとの情報をゲットする。 早速、家に帰ってT病院のHPにアクセスする。既に痔瘻に関するURLは、殆ど閲覧していたので痔瘻根治手術に関してはかなりの知識を得ていた。 殆どの病院が2〜3週間の入院が必要とする中で、ある病院は手術無しで治癒可能としていた。 その方法は、瘻管に対してひもを通すらしい。そのひもは皮膚を脆くする作用がある為、長時間ひもを 当てがっていると瘻管が塞がってくるとの事である。手術無しは魅力であったが、発信元が名古屋方面 である事と技術的に不安を感じた為、特にそれ以上の調査する事は止めた。結局、入院するとしたら 技術力,病院との距離などを総合的に考慮しT病院が妥当と考えた。 後は、その時期を決める事だ。しかし、この時点で忘れてはならない事が1つだけある。 肛門周囲膿瘍は、痔瘻に発展しない可能性もあるのだ。 一分の望みを託して、しばらく様子を見る必要がある。3月6日(金)を期限とした。約2週間の間に 改善が見られなかったら病院に行く事と決めた。

2月23日、経過を見たがよくならず
あっと言う間に期限の日が来た。残念ながら、この11日間に改善は見られなかった。ティッシュに血が 付いてない期間が約24時間続くと何となくケツに違和感,鈍痛を感じる様になる。その時は、二次口を 摘む様に膿を押し出す。その後は、断続的に出血がある。そんな事を繰り返していた。 ただ、腫れはだんだん小さくなっている。二次口が可愛く肛門にへばり付いているだけだ。

11年3月6日、T病院へ
憂鬱な一日の始まりだ。今日は、病院に行くと決めた日である。 朝食を済ませホームページに載っていた地図を持ち車で家を出る。 病院に着いたのが、AM11時頃だ。結構きれいな病院である。「あの〜初診なんですけど...」との 一言からこの病院との付き合いが始まった受け付けの女の人から初診を受ける為の質問表が渡された。 この作業は、何処の病院でも同じ事だ。無駄な作業の様な気がする。データベース化できないのか? 技術的には可能でしょう。ただ出来ないでしょう。病歴なんぞ、一番隠したいプライバシーだよな〜。 そんな事を思いながら項目を埋める。しかし、質問が笑ってしまう。「便は、一日何回?」 「便の際、出血はあるか?」「便は、堅いか?」などばかりである。流石、肛門科。質問がストレートだ

診察・・・入院予約
約10分待って名前が呼ばれた。あまりにも早いので心の準備が出来て無かった。 診察室に入る。先生は若い。短髪で、何故か額が汗だくだ。 今までの経緯を伝える。その際、「瘻管」,「二次口」などの用語を意識的に使う。この事により 「色々調べた患者だなぁ。」との印象を受け詳しい説明をしてくれる事を期待する。しかし、その逆で 「いやみな患者。」と煙たがれる場合もある。特に田舎の医者に多い。「患者=無知」と思っている 医者が田舎では結構居る。 肛門の周りに何かが塗られ「行きますよ〜。」と言われ、先生の指が肛門に入る。 そして、すぐ抜かれる。以上で診察はおしまいだ。 先生は、お尻の絵の書いた紙を取り出し、瘻管の絵を書き加えてくれた。一次口は、肛門の後ろ側にあり 約45°回って左側の二次口と通じているとの事であった。また、痔瘻としては、単純と複雑の中間だ とも説明してくれた。曲がっている分、複雑らしい。入院の手続きをする様にとの指示を受けて 終わりとなった。 約5分間である。診察室を出る。覚悟はしていたが、やっぱり痔瘻であった。痔瘻と明言されると結構 ショックである。先生の印象は、なかなか良い。説明も充分であり、態度に自信を感じる。 また、先生は、大腸の内視鏡検査を勧めてくれた。痔の手術の為に断食するので好都合との事。 精神的に「お任せモード」となっている為、深く意味を理解しないまま「ハイ」と返事していた。 大腸の内視鏡検査では、ポリープや大腸癌などを効果的に発見できるらしい。 入院となっては、家内の助けがいる。電話で状況を確認して4月2日に入院する事を決めた。 4月2日であれば、入退院時が長女の入学式、次女の入園式にぶつからないとの事 であった。4月はたいへんだ。長女は入学、次女は入園、パパは入院だ。 病室には患者専用の電話があるとの事で、 メールは取れるなと思った。やっぱり俺は、会社人間か?

 

 

4月2日いよいよ入院
尻の状態に変化は無い。痛みは殆ど無い。 ただ、血がたまに出るだけだ。「血がたまに出るだけだったら別に放置しても問題ないなぁ〜」なんて 思ったりする。実際に、痔瘻を放置している人もいるらしい。入院前日には、 PCを会社から持ち帰る。別に入院中、仕事をやりたい訳では無い。メールアクセスをする事で、 社外には入院がカモフラージュできると考えたからだ。 会社の行き先表示板には、休暇とだけ書いておいた。いよいよ入院当日だ。荒海に向かって船を漕ぎ出す心境だ。 AM11時に病院についた。家族全員が病室まで案内される。 病棟に入ると独特な匂いが鼻を突く。病棟独特のどんよりとした空気だ。一段と滅入ってきた。

病室の戦友たち
病室は、4人部屋だ。 家族を帰し、パジャマに着替えた。1人で戦場に立つ心境である。ところが、 説明を聞くとあと2人、本日入院するという。3人で戦場に立つ心境に変わる。 そのうち、もう1人の戦士、Sさんがやってきた。 手術は、2回目という事なので一応先輩だ。55歳位の182cm位ある痩せ型タイプだ。 Sさんは、内外痔核だそうだ。その後、2人に対して今後の予定について説明があった。 半分、上の空である。何故か集中できない。入院のしおりを渡された。何が予定されているかが一発で 分るように上手くまとめてある。 後は、兎に角なすがまま、「お任せモード」である。以下が、スケジュールに従い本日やった事。 全行程が終わったのがPM3時半である。 @アレルギー反応試験(多少反応有り。蟻アレルギーが有ると言ったら何故か笑われた。) A血圧測定 B心電図(画面に映るハートマークが、生きている事を教えてくれる。) C胸部レントゲン(機械に肌が触れると、その冷たさにいつも驚く。) D剃毛(若い娘さんにケツの毛を剃られる。何故か恥ずかしさは全く無い。) E診察(先生に、肛門に指を突っ込まれる。) 部屋に戻ってからは暫らく、ボーッと高校野球を眺めていた。 気が付くともう1人の戦士が着ていた。Kさんという。65歳位か。ダンプの運転手との事。 痔歴は、長いらしい。俺とSさんは、明日手術であるが、小池さんは月曜日だとの事であった。 Kさんも内外痔核だそうだ。Kさんは、35年前に痔の手術をやった時、やたら痛かったらしく 今回の手術は一大決心との事だったらしい。話を聞いているとこっちもビビッてくる。 気を紛らわせる為に、PCを電話線に接続して本日の日報を家と会社に送った。 夕食は抜きだ。空腹とビビリで寝苦しい夜を過ごす。

4月3日・・・・手術開始
何やら小型のベッドが病室に入ってきた。俺の番と直感する。当たりだ。 心臓が高鳴る。生まれて始めての手術だ。ベッドに乗せられ手術室に運ばれる。点滴もしている。 外見的には、いっぱしの病人だ。手術室に入る。覚悟を決める。自らリラックスする事に努める。 約10分待っただろうか。ベッドに乗った患者が出てきた。 いよいよ次は、俺である。再度、覚悟を決める。看護婦さんがやって来て、ベッドを本当の 手術室に入れる。ラジカセから宇多田ヒカルが流れていた。先生の趣味なのだろうか。 兎に角、手術台にはテレビに出ている物とそっくりのライトがぶら下がっている。緊張する。 看護婦の手を借りて手術台に移される。いよいよだ。ここまで来ると、逆に気が楽になった。 開き直りの心境か。うつ伏せになる。この体勢は結構ビビる。後ろから何かをされる のが怖いのだ。まずは腰椎麻酔の注射だ。実は、これを一番ビビっていた。痛そうなのだ。 針が入りチクッとする。その後の込み上げる様な激痛を想像していたが、実際にはそんな事は 無かった。注射が終わり、しばらくすると先生の言った通り足からビリビリとしびれて来るのが判った。 約2分後、いよいよオペが始まった。

お尻を何かされているとの感覚はあるが全く痛みは感じない。 ただ、下っ腹に鈍痛を感じる。我慢できる中位の痛さだ。先生に訴えると、腸を引っ張っている からだとの事だ。いっその事、腸にも効く麻酔を打ってくれと言いたくなる。 手術中、先生と看護婦は花見の話で持ちきりだ。手馴れた手術という事か? 多分、手術はパターン化されているのだろう。全く緊張感が伝わってこない。 ここまでくるとこちらにも余裕が出来る。「はい、終わりです。」との言葉に安堵した。 上手くいったとの事でした。 後は、病室のベッドに戻される。「ご苦労様でした。」との看護婦の言葉に笑顔で答える。 帰る途中に、ベッドで運ばれるSさんとすれ違う。心配ご無用と言葉をかけるが、 Sさんの顔は引きつっていた。 病室に戻ると、ドッと深く安心する。そのせいか、すぐ眠ってしまった様だ。 4時間後位に目が覚める。下半身がまだしびれていた。更に眠った。 次に目覚めたのは、既に夜中だった。流石に麻酔は切れていた。特に痛みも無い。 看護婦が状態を確認しに来た事が断片的に思い出した。家内から電話があり 大丈夫だったと話した事も思い出した。泥酔した時の記憶の様に不確かだ。 更に又、死んだ様に眠った。

4月4日手術翌日
死んだ様に寝た為か、元気に目が覚めた。お尻も痛くない。腫れている感じはする。 空腹である事を思い出す。げんきんなものだ。考えてみれば山田うどん以来何も食べてない。 お昼に5分粥がでた。味わって食べた。足らない。 夕飯に5分粥がでた。味わって食べた。足らない。 今後は、空腹との戦いだ。家内が、大好きな天乃屋の歌舞伎揚げなどのおやつを持って見舞いにきた。 まだ、間食は厳禁だ。さて、いつ歌舞伎揚げに触手が伸びるか自信が無い。 肛門からは、薄い血の出血がある。今後この出血が続くそうだ。 痛みは、全くと言って良いほど無い。 早速、この日から仕事がやって来た。メールアクセルすると、次の会合に向けての寄書の作成依頼が 飛び交っている。この日は、静観する事とする。

4月5日仕事再開
手術後、始めてお風呂に入る。治療の一環らしい。小さな湯船が6つ並んでいる。 1人が入るとお湯を全て抜き、更に次の入の為にお湯を入れる。感染を防ぐ為だろう。 久しぶりのお風呂は、気持ち良い。しかし、腹が減った。痛みはまるで無し。 この日より仕事のメールを発信する様になった。毎日30通位のメールを隈なくチェックする。 結構時間が潰れる。また、PC内の未読スペックなどについてもゆっくり目を通す事が出来る。 何故か会社より集中できるのだ。新聞、週刊誌を読んだりメールを見たりで、マイペースで時間を潰していく。 こんな事は、めったにない。とても心地よい。傷も順調だ。 SさんKさんも暇を潰すのがたいへんそうだ。 ただ、腹が減っている。 今日は、家族全員で見舞いに来た。昨日が、長女の入学式であった事を知る。 入院している事の不甲斐なさを感じた。長女は、学校であった事を色々話してくれた。 次女は、久しぶりに見るパパに甘えてばっかりだ。

 

4月8日病院脱走
昨日までは、低残査食といって消化の良い食事を摂っていたが今日からは常食だ。 つまり、多少のおやつはOKと勝手に解釈する。 よって今日は、逃亡を試みる。病院を脱出する。 ロッテリアに駆け込み「カツ丼バーガー」なる物をぱくついた。 久しぶりのシャバの空気だ。流石に缶ビールには、手が伸びなかった。 帰りに床屋さんに寄って散髪をした。さっぱりした。仕事が絶好調だ。色々とやる事が有る。今日なんか、メールで送れない 文書を病院のFAXに入れてきた。相手は正気か? 俺は、入院中だ! そろそろ病院がいずらくなる。

情報公開の大事さを痛感
米国では、簡単な手術の場合でも、たくさんのサインが必要となる。 患者は、手当ての内容について吟味し承認するのだ。 つまり、米国のシステムは患者が自分の病気に対して知識を有する事が前提となっている。 その上で、処置方法について患者が署名するのだ。 だから、おのずとインフォームドコンセプトが必要となってくる。 それに対して、日本ではあまりサインの習慣がない。 (今回の手術では、サインを行いました。) 良い見方をすれば、全面的に医者を信頼している故に不必要だったのだろう。 しかし、場合によっては最善を尽くしたはずの医者に対しても結果次第では、 患者から不信感を抱かれる。場合によっては揉め事になったりする。 つまり責任の所在が曖昧なのだ。また患者は、病気に対する知識が無い為に 責任を負う為の土俵にさえ上がれない。

4月10日退院決定
さて、今日も朝から仕事ばかりやっている。私の代打で、 後輩が来週ニースに行く事になったのだ。その罪滅ぼしとして、 出来る限りサポートしてあげたいのだ。 AM11時半頃、高校からの友達が見舞いに来てくれる。何となく照れるが嬉しい。 受け付けの隣の喫茶室で色々と話す。最後は、必ず「今度飲もうな!」で終わる。 今回もそうだ。時計を見ると、PM12時をかなり回っている。これは、まずい。 今日の昼食は、蕎麦なのだ。案の定、伸びきった蕎麦が冷たくなっていた。 仕方ないので、蕎麦を口に詰め込んだ。 その時であるグッドニュースが飛び込んできた。 明日の退院が、OKされたのだ。嬉しい。Sさんも明日の退院である。 Kさんは、手術が2日遅れたのでその分、退院も遅れるのだろう。 イザ退院となると逆に今までの病院生活が恋しくなる。 特に、偶然にして運命を共にした戦友との別れが悲しい。 さて、明日からは多忙な浮世が待っている。 そろそろ、「お任せモード」を切り替えなければ...

<<<あとがき>>>
10日間の入院生活となった。 この闘病記の趣旨は、特に無い。暇つぶしといったところか。 但し、肛門周囲膿瘍から痔瘻に連結する疾患は、細菌が偶然に肛門小窩という窪みに入って 炎症を起こした場合に発生します。 つまり、誰にでも発病する可能性が有るという事です。 ある日、突然、お尻の違和感に気が付いた時、この闘病記の事を思い出してください。 少しは役に立つでしょう。 (完)

   
   
   
 

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